「目標なし」の不安を乗り越える 禅と実存主義の視点
現代社会では、「目標を持て」「やりがいを見つけよう」といったメッセージに囲まれることが多いものです。仕事でもプライベートでも、明確なゴール設定や、それに向けた情熱が重視される傾向にあります。しかし、もし自分にそうした「これぞ」という目標や揺るぎない「やりがい」が見つからない場合、漠然とした不安や焦りを感じてしまうことがあるかもしれません。
なぜ私たちは、「目標がない」ことに不安を感じるのでしょうか。そして、こうした不安に対して、東洋の禅や西洋の実存主義といった思想は、どのような視点を与えてくれるのでしょうか。
「目標がない」ことへの不安の背景
現代社会は、個人の成果やキャリアパスが強く意識される競争社会です。成功とは、しばしば明確な目標を設定し、それを達成することと結びつけられます。また、SNSなどで他者の「充実した」生活や「達成」を見聞きする機会も増え、比較から「自分は何者か」「何を成し遂げているのか」という問いに直面しやすくなっています。
こうした環境の中で、目標がない状態は「立ち止まっている」「遅れている」といった感覚につながり、不安や劣等感を生むことがあります。しかし、人生において常に明確な目標を持ち続けることが、本当に必須なのでしょうか。あるいは、目標を達成することだけが、人生の価値を決定するのでしょうか。
実存主義の視点:自由と責任の中での自己創造
実存主義は、人間の存在は本質に先立つ、つまり人間はあらかじめ定まった目的や本質を持って生まれてくるのではなく、自らの選択と行動によって自己を創り出していく存在であると考えます。サルトルに代表されるように、人間は自由であり、その自由ゆえに自己の存在全てに責任を負うと説きます。
この考え方からすれば、「目標がない」という状態もまた、自己が直面する自由な状況の一つと捉えることができます。目標は外部から与えられるものではなく、自らが主体的に選び、創造するものです。不安は、この果てしない自由と、それゆえに生じる責任の重さから生まれるものかもしれません。
実存主義は、この不安から逃げるのではなく、直視することを促します。目標がないなら、まさにその自由の中で、何を為すか、どのような自分であるかを選択する責任があるということです。それは時に重圧ともなりますが、同時に自己をどのようにでも規定できる可能性を示唆しています。目標は「見つける」ものではなく、「創る」ものだという視点は、受け身の不安から主体的な行動への転換を促す力を持っています。
禅の視点:「為さぬを為す」と「いまここ」への集中
一方、禅の思想は、結果や目標への執着を手放し、「いま、ここ」の瞬間、そして「為すことそのもの」に意識を集中することの重要性を説きます。「無功用(むくうゆう)」という言葉は、人為的な計らいや意図、つまり特定の目的や目標に囚われずに、自然体で行為を行うことを意味します。
目標達成を強く意識することは、未来への不安や過去への後悔を生みやすくします。禅の教えは、そうした思考の迷いから離れ、目の前の行為、例えば呼吸やくつろぎ、あるいは与えられた仕事や日常的な所作そのものに全幅の注意を向けることに価値を見出します。
「目標がない」という状態も、禅の視点から見れば、未来に設定された結果に囚われず、「いま、ここ」にある自分自身と向き合う機会と捉えることができます。不安を感じるその心そのものを静かに観察し、受け入れること。そして、大きな目標がなくとも、目の前のタスクや日々の営みに丁寧に取り組むこと。それが、結果的に新たな道を開いたり、心の平安をもたらしたりするという考え方です。
東西思想の統合と実践への示唆
実存主義は「自己が主体的に目標を創造する自由と責任」を強調し、禅は「結果への執着を手放し、いまここを丁寧に生きる」ことを説きます。これらは一見異なって見えますが、現代の「目標がない不安」に対して、互いに補完し合う示唆を与えてくれます。
- 主体性の自覚(実存主義): 目標がない状態は、決して劣っているわけでも、遅れているわけでもありません。それは、自らが何を価値とし、どのような方向へ進むかを「選択できる」自由がある状態です。周囲の価値観に流されるのではなく、「自分がどうありたいか」という問いを立てること自体が、自己創造の第一歩です。
- 結果への執着を手放す(禅): 厳しい目標設定や、達成できなかった場合の自己否定は、心を疲弊させます。目標を持つこと自体は行動の指針となりますが、それが唯一の価値基準ではないことを理解する。目標達成の可否ではなく、「いま、目標に向かって(あるいは、目標がなくとも)取り組んでいるプロセスそのもの」に価値を見出す視点を持つことが重要です。
- 「いまここ」を丁寧に生きる(禅): 大きな目標が見えなくても、目の前の小さなタスクや日々の生活に集中し、丁寧に取り組むことから得られる充実感は大きいものです。不安に意識を囚われすぎず、具体的な「為すこと」にエネルギーを向けることで、漠然とした不安は軽減され、新たな可能性が見えてくることがあります。
- 不安を受け入れる勇気(実存主義+禅): 目標がないことへの不安や、自由ゆえの重圧は、人間存在に内在するものです。これらの感情を否定したり、無理に払拭しようとするのではなく、そういう自分自身を受け入れること。禅の瞑想のように、感情を観察し、それがあるままに寄り添う姿勢は、不安を乗り越える一助となります。
まとめ
現代社会で「目標がない」ことに不安を感じることは、決して特別なことではありません。それは、私たちが自由な存在であり、自らの生を自ら創り出さなければならないという実存的な状況、そして、成果主義や競争に曝される社会環境の双方に根差しています。
実存主義は、この自由と責任を直視し、不安の中で主体的な選択によって自己を創造することの重要性を示唆します。一方、禅は、結果への執着を手放し、目の前の行為と「いまここ」に意識を集中することで、心の平安と新たな道が開かれることを教えてくれます。
これらの東西の哲学は、「目標がない」という状態を単なる欠落と捉えるのではなく、自己と向き合い、自らのペースで人生を歩むための重要な機会と捉え直す視点を提供してくれます。大きな目標が見えなくても、日々の営みを丁寧に積み重ねること。そして、自分が何を価値とするかを問い続け、小さな一歩を選び取っていく勇気。それが、不安と共に生きる現代において、自分らしい生き方を見つけるための鍵となるのではないでしょうか。